学校教育のあり方

大阪の市立高校で起きた高校生の自殺事件が今、体罰の是非をも含め大議論になっている。もし橋下市長のような改革者が存在していなければ、このように世論が反応することもなく時間と共に収束してしまったのかもしれない。世論が盛り上がるということは、それだけ行政側が市民に対してオープンで身近になってきたからだと思う。


今回の不祥事に関わらず、公務員の隠蔽体質は許されざるものと考えられる。わたしの友人も校長や教頭をしているが、学校の地域性により風紀の違いをよく話していた。当該学校で、問題の体育系の教師を長年異動させてこなかった教育委員会、学校側の責任は重い。民間企業ではありえないことである。


体罰が学校教育法で禁じているのは今に始まったことではない。どこまでが体罰なのかは難しいが、許容の範囲というものがあろう。問題の教師が許容の範囲を超えて体罰を与えてきたにも関わらず、学校内で改められなかったのは公平で定期的な人事異動がなされなかったからだと思う。


学校教育はもっと時代の変化に対応して変わっていかなければならない。旧態依然とした教育の実態が無いか都道府県が責任を持ってチェックし、各学校の教育の均一化を図らなければならないと思う。橋下さんの考えに同調する部分が少なくない。それだけ教育現場での感覚のずれが長期に亘り放置されてきたとも言える。


これだけ問題になるのも、学校教育がこれまで閉鎖社会に包まれ、時代と共に衰退してきたのではないだろうか。自民党に義家という若手の議員がいる。彼は政界進出前から深夜ラジオでいじめられた生徒たちを救ってきた。今回、安倍政権になって彼が真剣に教育改革を目指してくれることを陰ながら期待している。