近眼と老眼

普段、めがねは鞄の中に持ち歩いてはいるが、人前でいちいちかけるのも面倒なので通常はかけていない。自宅にいる時もめがねをかけることはない。しかし離れた距離のホワイトボードをはじめ外の大会場での大型スクリーンによる映像などはめがねがないと全く見えない。いわゆる近眼である。


我が家では休日、家内がめがねを探し回ることが多い。年齢のせいか狭い住居にかかわらず置いた場所を忘れて探し回るのである。私の場合は自宅でめがねは不要なので、たびたび家内の探す行為にこちらまで動かされる始末である。家内も外出時はめがねをバッグに入れて持ち歩くが、普段は外では私同様かけていない。


二人で出かけて便利なのは、裸眼で遠くが見える家内と全く見えない私というふうにお互い対照的であり、どちらも外出時に補完することができるということである。休日はめがねがなくても映画を鑑賞すること以外は不要なので私は不便は感じないが、家内はとても不自由なようである。平日はめがねがないと私自身も大変不自由するので同じである。


お互いに歳をとっているが、夫婦とも近眼と老眼のめずらしい組み合わせである。本来、老人が老眼鏡をかけているのは普通だが、私自身、今頃(ここ10年)になって近眼になるのは若い人と同じで何だか嬉しいような気がする。しかし体力も記憶力も若い人には遠く及ばないので何ら自慢にはならないが・・・。


視力も良かったり悪かったりするようで、一時期はめがね携行と運転免許書に書き加えられていたが、その後の書換え時に視力がたまたま基準を満たして裸眼でOKということになっている。警察署での視力検査もいいかげんな気もするが、何とかぎりぎりセーフというのが現状である。


おそらく毎日、目薬を欠かさずに点けているからだろうと素人ながら思っている。世の中には目の不自由な人も多いのでこんな話は失礼極まりないかもしれないが、ご容赦いただきたい。目の不自由な方の視力が少しでも回復しないかと陰ながら願っているのも事実である。