不毛の議論

世の中には相対立するもの同士の不毛の議論というものが見られる。昨日、深夜まで行われた民主党内の消費税法案の取りまとめ会合や経産省主催で行われた次世代エネルギーに関する諮問委員会など白黒の意見をまとめるのも至難の業である。しかし、どちらも司令塔なしに真っ向から持論を述べるだけでは結論に至ることはない。


仮に宗教論争をした場合でも互いに自らの思想を訴えるだけで、双方に納得の行く正しい結論に至るはずがない。うまく纏まれば中東などで繰り広げられる宗教戦争などは起こるともないだろう。だから憲法にも信教の自由は必要であり、政治に宗教を取り入れては宗教論争にもなりかねないので政教分離憲法に反映されているのである。


かつて昭和40年代の学生時代頃、東京都知事選挙が盛り上がったことがある。当時、現職の美濃部亮吉氏と新人候補の石原慎太郎氏(現都知事)の雌雄を決するような選挙戦であった。一般都民が支える美濃部氏と自民党や産業界が推す石原氏の新宿西口での論戦は今でも記憶に新しい。


一方、その後も北の大地、北海道知事選挙も現職で4期目の堂垣内尚弘氏と社会党推薦で新人候補の横路孝弘氏の争いは民衆の「勝手連」という盛り上がりがブームを呼び逆転勝利となったことがある。どちらも昭和40年代後半から50年初頭に起きた民衆を二分するような選挙戦だったように思う。


原発論争も保守系政治家や産業界と革新系政治家と一般庶民とでは、それぞれの言い分があり意見をまとめることは困難を極めることではないかと思う。原発再稼動も福島原発事故の教訓を国民自身が深く心に刻んだがため世論としても反対勢力が強くなったことと思う。


たびたび政権交代が行われて、一国の司令塔がごろごろ変わる日本において、国民の支持する司令塔がいない現状の国政で、原発の是非について国民を納得されて意見を集約することができようか。わたしは寧ろドイツのように国民投票をせざるを得ないのではないかと考えている。